第5章 情けは人のためならず
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ほんとうでない話もあるが、そこに教訓的な寓話が含まれているのは確かだ――創世の話だけでなく、社会契約の寓話である。問題は、契約が結ばれたことがあるかどうかではない。もっと深いところでは、契約を解決策にする必要性がなかったのだ。(メアリー・ミジレー) ローレンツの「攻撃」
そのとき驚いたのは、闘争的なことで知られるカニクイザルでも、喧嘩はめったに起こらないということ
生活の中で喧嘩が占める時間は5%にも満たない
しかし突然追いかけが起こったり、甲高い声で相手に吠えたりして、雄が鋭い犬歯を武器に使う危険性は常にあった
攻撃性は内側からの衝動の表現、あるいは欲求不満のサインであったり、不愉快な外的刺激への反応だと一般に思われていたが、観察をはじめてすぐ、私はそういう考えに違和感を覚えるようになった それが誤りだというわけではないが、しかしあまりにも個体重視で、社会的な背景を軽んじていると思った
私の中で個体は次第に抽象概念になりつつあり、むしろ関心を覚えたのは、個体間の関係だった
私達が攻撃性とよんでいるものは、利害が衝突したときに散る火花のことなのだ
したがって、個体ではなく、個体間の現象としてとらえなくてはならない
社会生活のその他の面と同じで、それだけを独立させて調べられるようなものではない
わずか5%の喧嘩は、残り95%の時間の中でどんな風に絡み合っているのだろう
カニクイザルの観察では、はっきりした形ではないにしろ数々の疑問が沸き起こった
科学的発見のひらめきに聞こえるかもしれないが、洞察とはそういうもの
ローレンツ「それとは意識をしないでデータ蓄積を続けていると、ある日突然、探し求めていた現象がそこにあると気づく。それは神の啓示のようにまったく前触れもなく訪れるが、その確信はいささかたりとも揺るがない」
二頭のチンパンジーが激しいやりあいの直後にしたキスだった
このキスでコロニー全体がフーフーと鳴きわめく大騒ぎになった
明らかにチンパンジーたちは、今起こったことが重大だと思っているらしかった
それまでの喧嘩で対立していた者同士が抱き合ったので、私にはそれが「和解」に見えた いまでは和解行動はチンパンジー以外の類人猿にもあることがわかっている 20年前のその日依頼、私はそんな和解を何千例も観察してきた
さりげない和解もあれば感情が高ぶったものもあり、緊張を緩和する和解もあれば、そうでない和解もあった
そこに攻撃性が加わっていることもいまでははっきり認識している
攻撃性は集団生活にときおり打ち上げられては消える花火ではなく、むしろ社会関係に不可欠な要素
攻撃性は関係の中から発生し、力関係をかき乱す
しかし、攻撃性が持つ有害な影響は、なだめの行動を通じて「帳消し」にできる
共感の表現と同じで、互酬性と協力を基盤にした強い結びつきがないと、平和的な手段で紛争を解決することなど絶対にできない 紛争解決のやり方は社会内での結びつきのレベルを映し出している
だが初期の動物行動学者が研究したようななわばりを持つ鳥や魚など、多くの動物はそんな結びつきを持っていない 学者たちがそういう動物を研究対象に選んだ事自体、当時は攻撃性が空間づくりのメカニズム、すなわち個体間の距離を維持し、なわばりを守るための手段と考えられていたことを意味している
サルや類人猿を観察して、彼らの攻撃には和解を伴うという結果が出たことは、攻撃性の従来の解釈に挑戦状を突きつけるものだ サルや類人猿は喧嘩をしたあと疎遠になるどころか、たがいに近づこうとする
彼らがお互いの存在に頼り切っていることを知ればおかしなふるまいでもない
攻撃行動は個体同士の衝突だが、社会関係に左右されるし、社会関係のなかでその役割を果たしている
この見方は、社会的要素と生物学的要素に等しく注目するものであり、ローレンツの「本能主義的」な観点からさらに遠く離れている
もちろん生物学を広義で考えれば社会もその範疇に入るが(ある動物の社会的傾向は、生物学のみならず、生理学、解剖学の対象にもなる)、果てしなく繰り返される攻撃性の議論では、そういう扱いはされてきていない
だが奇妙なことに、愛情や協力やセックスに関して同様の声明を発表する者はいない
これらは人間性の本質を形作る重要な要素だということをほとんどの人が認めているから
攻撃性だけ特別扱いなのは、攻撃性は人間が己の姿を振り返って考えるとき、見たいとは思わない特徴だから
人間が攻撃性から脱却できないと示唆する生物学者は非難の矢を浴びることになる
セビリア声明で語られている発想は、人間を殺し合いをする類人猿と表現していた時代から一歩も抜け出ていない
現代の動物行動学者は攻撃行動を分析するとき、遺伝的要素のほかに環境面も合わせて考えるようにしているし、社会背景のデータや個体間の衝突解決の詳細なデータをたくさん集めている
私は『仲直り戦術』を書いていたとき、親戚筋に当たる動物が攻撃性にどう対処しているかを知っていても、私達自身についてはあまり知らないことに驚いた 人間の攻撃性に関する研究のほとんどにおいては、社会生活の他の側面とは切り離して、社会行動というより反社会行動とみなすことが多い
社会という檻
人間はもともと個人主義者であり、我々の祖先が自給自足だったというという主張
ルソー自身は内気で家にひきこもりがちで、一人で庭を散策するのが何より楽しかった人物だから、こんな社会的な結びつきの欠落した想像ができたのだろう
経済学者のあいだでは、社会はロビンソン・クルーソーの集まりである、すなわち独立した世帯が自由意志による交換活動に従事しているという考えがすっかり定着している 正義をめぐる理論でも、本来は自由で平等な人間が、コミュニティを建設するために自主性を犠牲にすることに決めて、数々の公正の原理に同意したという考えが浸透している こうして「権利」の概念は、他者の主張を尊重することを各人に求める道徳性ということになった ジョン・ロールズともなると、道理をわきまえながらも、お互いに無関心な人たちで構成されていたというのが、人間社会の「初期状態」だと述べている 相互に強い結びつきを持つ階層構造のコミュニティを作り、何百万年も営み続けた動物の末裔が人間 どんな形であれ、こういった動物たちが作り出した司法システムは、自由を持たない不平等な、そして合理的というよりむしろ感情的な個人を対象にしていたはずだ
人間の祖先も自分の親や子ども、兄弟姉妹、結婚相手、仲間、友人、共通の大義を守る者同士として、おたがいのことに大きな関心を寄せていたに違いない
個人の権利ばかり取り上げる道徳観念は、最初の最初から存在していた個人同士の結びつきや要求、互酬性を無視する傾向にある
優れた思索者たちが、そんな社会像をどうして思いついたのかは謎
最初から社会は不平等だが親密だったというのではありがたみが薄れる
公正さを追求する努力に重みを出すために、人間は元来平等だが疎遠だったというストーリーを作ったのではないだろうか
にわか成金が由緒正しさをほしがるように、私たちは自分の社会観を正当化するために歴史をねじまげているのである
いずれにせよ、この神話は効果をあげてきた
ルソー自身は、生物学をインスピレーションの源と考えていた時期もあったが、当時は知識があまりに不足していたために、嘆きつつもその方向は諦めてしまった
しかし現代ならば、科学的にちゃんとした根拠のある再構築ができるかもしれない
野性のチンパンジーの雄は広い森を自由にうろついているように見えるが、単位集団同士の摩擦を招かないよう、一定の境界を超えることはない 同じ群れの同盟者の雄と仲違いをするわけにはいかない
しかし協力し合う雄は、同時に支配的地位を目指して競い合う相手でもある
だから雄は,同盟者やライバルの動向につねに気を配らなくてはならない
一方チンパンジーの雌は、雄のなわばりのなかにある狭い行動圏にとどまることが多い
まわりにはつねに支配者たる雄たちや、絶えず保護を必要とする子どもがいる
それがストレスというわけではなく、野生チンパンジーは仲間付き合いや余暇の時間など、ありとあらゆる愉快なことも楽しんでいる
だがやはり、彼らも社会のとりこ
それはちょうど全員が顔見知りの小さな村のようなもの
関係は安定していて親密で安心できるが、同時に強力な制御も働いている
この特徴が顕著なのは、チンパンジーよりもむしろサルのほうだろう 数頭程度の小さなグループで森を移動し、群れの顔ぶれも頻繁に変わる
母親と乳飲み子は別にして、あらゆる結びつきは一時的なものでしかない
一方サルのたぐいは、群れのメンバーが変わらない凝集的な社会
社会の檻はもっと頑丈になる
仲間同士がずっと顔を突き合わせ、自由のない群れが人類の最初の状態だったとすると、私が観察しているような飼育下のチンパンジーは興味深い実験をしていることになる
自然の生息環境ではチンパンジーは流動的な社会ネットワークを作っているが、飼育下ではメンバー構成がずっと変わらない
そんな状況は彼らが適応できる潜在能力を大いに試すことになる
健康や生殖能力、あるいはの動物特有の行動レパートリーを損ねることなく適応できる条件の幅
潜在的な適応能力の範囲は、自然の生息環境よりも広いのが普通
アーネム動物園が半自然飼育場を設けたのを皮切りに、この20年あまりのあいだに各地の先進的な動物園や研究機関が行ってきた試みのおかげで、チンパンジーは健康な生活を送れるようになってきた こうした条件が整ったところでは、飼育チンパンジーの社会行動は野生チンパンジーと似てくる
もちろん集団生活の密度は濃くなる
特におとなの雌は、野性では孤独に過ごすことが多いにもかかわらず、飼育下では社会的な親密さを示すようになる
飼育されている雌のチンパンジーは雄の暴力からお互いを守ってやり、一致した行動で雄の権力闘争に積極的に影響を与え、頻繁にグルーミングをしたり、食べ物を分け合ったりする いずれも野生チンパンジーの有名な生息地では珍しい、あるいは、まったく見られない行動ばかり
一方、大人の雄同士の関係は、生活条件にさほど左右されないようだ
野性でも飼育下でも、雄たちは友好的なものとライバル関係が入り混じった特徴的な関係を築く
簡単にまとめるなら、サルの持つような永続的な関係も、チンパンジーの潜在的な適応能力の範囲に履入っていることになる
顔ぶれの一定したグループでチンパンジーが生活する能力は、人間の進化と深い関わりがある
私達の祖先にチンパンジーのような能力がなかったら、定住という決定的な一歩を踏み出すことはできなかったはずだ
飼育チンパンジーのコロニーは、ヒト上科に属する動物が生まれ育ったコミュニティを簡単には出られなくなったときに、いったいどうなるかというきわめて貴重な証拠を与えてくれる。つまり農業を発明したあとの人間のように、狩猟採集民や野生チンパンジーに特徴的なグループの分裂をやめて、社会構成を変化させる方向に変わるのである。 あらためて自由の問題が浮上してくる
環境はどうあれ、チンパンジー、サル、人間は所属しているグループを簡単に抜けられるわけではない
「所属する」という言葉が持つ二重の意味
構成員はグループの一員であると同時に、グループに所有されている
グループ間の移動は自然でも見られるが、雄か雌かのどちらかに限られ、そもそも特定のライフステージでのみ起こる傾向がある
一時的に距離を置くことはあっても、長期的にはグループのほとんどのメンバーが一緒にいる
否定的な言い方をしているのは、人間は好きなときにどこへでも行ける一匹狼の集まりだったという神話との対照させるために過ぎない
社会的動物とは、交友を求め、それを楽しめる動物を言う 社会の檻は、彼らにとっての宮殿なのだ
集団生活が社会契約を基本としているならば、契約内容を立案して署名するのはそれぞれの個体ではなく、母なる自然だろう しかも他者との結束で適応度が高まる、つまり社交上手な個体が一匹狼よりたくさん子孫を残せるときにしか、自然は契約書に署名してくれない 社会性に関係する性向は合理的な選択ではなく、むしろ遺伝子の計算を通じて出現する 自由意志を誇る私達人間の中には隠遁生活を好む世捨て人はたまにいるが、意図して社会的になろうと決めた人にはお目にかかったことがない すでになっている状態に、自分の決心でなることはできない
だが社会的動物にとって集団生活はいいことずくめというわけではない
紛争解決が必要になってくる
集団生活最大の欠点は、周囲の者がみんな同じような食べ物をほしがり、同じような異性に惹かれるということ
集団は敵対と競争の場でもあり、皮肉なことにその2つこそ脅威
無名の個体がただ集まっているだけなら、群れて泳ぐピラニアがときおりすばやくおたがいの体を咬みちぎるように、匿名のままうまく立ち回れるかもしれない
しかし個々の存在が際立っている社会は、攻撃の抑制とバランスがきちんとできないと滅びるだけ
そういう社会では破壊的行為は重大な結果を招くため、他の者はその「責任者」をちゃんと覚えている
だが動物たちは、集団の利益のために競争の手をゆるめているわけではないと思う
それはあくまで個体の利益と重なり合う部分に限られる
もっとも、集団への所属が生死を分けるともなれば、個体の利益とかなりの部分が一致することになる
集団生活は捕食者から身を守れることが大きな利点
捕食者のいない島のほうがカニクイザルの群れは小さいことが確認された
ヴァン・シャイク「ここから浮かび上がっってくる図式は非常に単純である。群れの下限は捕食で決まり、上限は群れの個体間の食物競争で決まるのである」
コスタリカでリスザルを追跡したスー・ボインスキーによると、出産の直後の雌(出産は驚くほど時期が一致する)は一人で食物を探すのをやめて、きっちりとまとまったグループを作って移動するようになる そんなふうに群居性が高まるのは、猛禽を警戒しているからだとボインスキーは考える 赤ん坊がポップコーンがはじけるように次々と生まれる季節になると、猛禽が群れの上空や近くを飛んでいる時間の割合が二パーセントから十パーセントになった。ハヤブサが、母親の背中から赤ん坊を直接つかもうとした光景を八度も目撃した。いずれもサルたちが大騒ぎをしたので、ハヤブサは飛びさった。だが子どもをなくした母親の背中を見ると、ハヤブサに襲われた別のサルと同じように切り傷ができて出血していた。 捕食動物からの防御が集団生活の究極の理由だとする考えは、他の動物にも当てはまる
ここでカッコをつけたのは、イルカの群れはいわゆる魚群とは全く別物だからだ
イルカたちは特殊な音でお互いに認識している
しかも一刻たりとも油断のならない世界で子どもに乳を飲ませる、継続的な協力関係を築くなど複雑な世界を送っている
リラックスして散らばっているときでも、ノリスが視界と音の「魔法の包囲網」と呼ぶ範囲から出ることは決してない
これは社会の檻の概念とは異なっている
サメやシャチが忍び寄ってくると、この包囲網は一瞬にして縮まる イルカ達は目で追うよりもすばやくいっせいに反応して敵を惑わす
色も形も同じイルカがぴったり体を寄せ合って同じ方向に動いていると、餌食を一つだけ選び取るのは不可能に近い
イルカの社会は、内側では個々の区別が発達しているが、外から個体の顔が区別できないというユニークな作りになっている
ノリスは大型船に乗った漁師ビッグベアと、イルカの群れとのやりとりをこんなふうに書いている
イルカは私たちのすぐ目の前で、不規則な配列で海面から飛びはねていた。突然ビッグベアが片手で舵を操りながら、キャビンのなかに手を伸ばしてライフルを出し、イルカのすぐ後ろの水中に弾丸を撃ちこみはじめた。イルカたちを「操れる」かどうか確かめるというのだ。弾丸の衝撃が水を伝わったのだろう、イルカはひとつのかたまりになって水から飛びだした。あまりぴったりくっついているので、隙間が見えないほどだった。
集団に所属していると、警戒する目や耳がそれだけたくさんあるから生き残る確立も高くなる
また集団の防衛メカニズムも働くし、(リカオンのような社会性を持つ肉食動物のように)単独でやるよりもすばやく、確実に獲物を圧倒できる これらはみんな外的要因に関係する
しかしそれとは別に、集団内の目的に到達するために集団内部で協調することもできる
それを巧みにやっているのが霊長類
霊長類の群れのなかでは、もっぱら二頭の個体が同盟を作り、別の一頭に対抗する形で競争が展開される
各個体が最高の同盟関係を築こうとする以上、パートナーは商品であり、社会的結びつきはまぎれもなく投資ということになる Aというサルが長い年月をかけてBと相互支援の関係を築き上げた
彼らは低順位者の一団を厳しく統制している
AとBは互いにグルーミングや調和の取れた行動を通じて関係を確かなものにしている しかしここで雌のCがBにグルーミングしたらAはその事実を受け入れるだろうか?
もしCがBと血縁関係にあったり、ランクが上だとすれば、Aは何もできない
Cがそのどちらでもなければ、AはCを脅してBから引き離そうとするか、あるいは押しのけようとするだろう
こんな競争はサルの群れでは日常的に観察されており、個体が「社会投資」の保護に努めていることがうかがえる
イエルーンとラウトが接近しないようにニッキーが努力することは至極当然のことで、私はそれを「分割統治」の戦略と名付けた
イエルーンとラウトが一緒にいるところを見かけると、ニッキーは飛んでいって割って入る
ニッキーが第一位雄でいた歳月のうち、このパターンはただの一度の例外もなく繰り返された
ニッキーがイエルーンとのパートナーシップを重んじていることは、彼と和解するときの熱心さにも現れていた
ニッキーとイエルーンは、交尾の権利をめぐってときどき対立することがあった
最初のうちは、トップを擁立した実力者であるイエルーンが自由に雌を選んで交尾していたのだが、次第にトップのニッキーもボスとしての自信をつけ、パートナーの好き勝手な性行動を容認できなくなった
イエルーンの交尾の試みをニッキーが粉砕すると、かならず緊迫のドラマが展開された
イエルーンは叫びながら雌を結集させ、ニッキーはというとラウトの動向に神経をとがらせている
ニッキーがトップの座に留まるためには、政治的な基盤をただちに修復するほかない
そこでニッキーはイエルーンに和解の手を差し出す
ニッキーがイエルーンをおろそかにできなかった事情は明らかだった
その証拠に、三年後ついに両者の協力体制が崩壊したとき、ラウトはたった一晩で第一位雄の地位を奪った
うまくやるために和解する
ニッキーとイエルーンのあいだに見られたような競争の抑制は攻撃性が個体の表現だとか、刺激に対する反応だとか、あるいはパーソナリティの特性だという見方をする人には到底受け入れられないだろう こういう考え方を「個体モデル」と呼ぶことにしょう
個体モデルの発想はいくつかの古典的な研究も触発した
実験者に衝撃を与えられたラットがたがいに攻撃をはじめるとか、暴力的な映画を見たあとの被験者に、見知らぬ人を罰させたり、自分の感情を報告させたりするもの 個体モデルの長所を否定するものではないが、このモデルは攻撃が起こる最も一般的な状況、つまり親しい個体間の関係に目が向いていないのではないだろうか
もちろんこの関係は、刺激と反応が複雑に絡み合った鎖と考えることもできる
しかし私は社会的な背景にもっと直接的に注目したいと思う
個体モデルに対して関係モデルの方は、歴史(および未来)を共有する個体間で利害が衝突した結果が、攻撃行動だと考える
個体同士を引き離す傾向と、近づける傾向が均衡を保っていることが前提になっている
個体は他の者と同じグループに所属したいと思い、愛着を覚えるがゆえにほかの個体と一緒にいる ところが表立った衝突が起きて、そんな感情基盤が揺らぐと不安に襲われる
同じ当事者間の利害がまとまっていても衝突は起こることがある
つまり、攻撃は一回限りの出来事ではなく、良好な関係から険悪な関係へと循環するあいだに起きる一連の接触の一部なのである
イギリスの精神科医ジョン・ボウルビー「我々はすっかり組み込まれているので、仲間付き合いを求め、そこに安らぎを覚える。そしてひとりになると、多少なりとも不安を感じるのだ」 物理的な分離と感情的な隔たりとの共通点を探るために、別れの不安と理論的には反対の、いわば再会の幸福感というものを考えてみよう
一度離れた仲間と再会したゾウは、その場で飛び跳ね、耳をぱたぱた動かし、尿をもらしながら、おたがいの体をこすりつけたり、牙をぶつけて鳴らしたり、ごろごろ喉を鳴らしたり、ラッパのような鳴き声をあげる 「人間の喜びとは違うかもしれないし、あるいは似ていないかもしれない。いずれにせよ、これはゾウならではの喜びかたであり、それは彼らの社会システム全体で大きな位置を占めている」
野性、飼育に関係なくチンパンジーが見せる挨拶の儀式はよく知られている 全身の毛を逆立て、大声をあげながら突進し、キスをして抱き合う
しかしその底流には敵意が潜んでいて、その証拠に下位者が支配者に近づくときは服従や宥和のジェスチャーを伴う
以前一緒に暮らしていたおとなの雄のチンパンジーを5年ぶりに再会させた
見知らぬ雄同士が出会うと喧嘩になることが多いが、二頭はたちまち興奮して抱き合いキスをかわし、旧友に再会したかのように背中を叩いた
翌日には両者のあいだに緊張が生じたが、再会直後の反応はまぎれもなく幸福感の現れだった
私がアーネム動物園を訪れるたびに、たとえ何百人もいる見物客にまじっていても、最長老の雌のママは即座に気づく 私は観察のとき対象動物とはほとんど接触しないし、餌やりや管理に関わることもない
ただその場に着いたときに動物たちに挨拶ぐらいはするし、ケビンとは彼の寝室で数度友好的な接触があったことは確か
ケビンが知っている人たちに混じって私が近づいていったとき、ケビンはただじっとこちらを見つめていた
私がしゃがんで二言三言声をかけた途端、ケビンはくるりと体を回転させ、手をたたき、私から目を離さずに遊ぼうと誘いかけた
この日の出来事で私はこれまでの考えを改めた
私自身は毎日のように会っていた霊長類の顔を決して忘れないし、実際ケビンに会ったときもすぐ彼だとわかった
なのにどうして、ケビンも同じだと思わなかったのだろう?
マディソンのヴィラスパーク動物園にいた20頭ほどのベニガオザルが、プエルトリコの屋外施設で数年過ごし、長い「休暇」を終えて戻ってきた マディソンの動物園に戻る前に検疫のために母親と赤ん坊は別にして一頭ずつ檻に入れられた
姿も見えるし声も聞こえるが接触はできない
数カ月後ようやく一緒になったサルたちは、大騒ぎになった
ベニガオザル独特の尻の抱きかかえをしながら、腹の底からわめきたてている
興奮状態は一時間半に及び、その後は満足げな鳴き声を静かに出しながらグルーミングを続けた
こんな再会の祝福ぶりを考えるとベニガオザルは他の霊長類に比べて喧嘩の和解も難なくできるのだろう
前者は物理的に離れていた者同士を、また後者は関係が疎遠になった者同士をもう一度近づけるためのものだからだ
どちらのプロセスからも関係が重視されていることがうかがえる
和解の道具
独自の和解の儀式を持つ動物
ところがそういう行動のない動物もいて彼らの和解はほかの接触行動と見分けがつかない
和解かそうでないかを見分ける基準は一つの行動ではなく、前後の流れ
私は和解を、対立していた者同士が喧嘩のすぐあとに再会することと定義している
だから偶然の再会が数度あったぐらいでは、和解とは言えない
攻撃的なやりとりのあと、友情に満ちた接触が段階的に増えていってはじめて和解となる
衝突のあとの行動と、もっとリラックスしたときの行動を比較してみればそのパターンがよくわかる
対立していた者同士が選択的に引き寄せられる、つまり喧嘩に関与していなかった個体よりも多く会おうとする傾向があることは、多くの研究で立証されている
この現象は霊長類に広く見られるようだ
和解にも色々ある
パタスザルやアカゲザルの和解のように緊張を伴う落ち着かないものもあれば、ボノボのように見ていてエロチックで楽しげなものもある
衝突のごく一部について和解する種もあれば、大部分を解決する種もある
どうしてこれほどばらつきがあるのかは不明だが、野性での群れの結束が重要な種ほど、懐柔に熱心という予測は成り立つだろう
和解は自然環境に適応して発達してきたものと考えられる 和解は非常に複雑な技能であり、社会経験によって修正される部分が大きいのではないだろうか
霊長類はこの技能をごく早い段階から身につける
個体間の結びつきにまつわるものはどれもそうだが、母親と赤ん坊の絆に端を発し、誰もが避けて通れない乳離れのトラウマが最大の刺激となる 赤ん坊が大きくなるにつれて、拒絶と受容の間隔がだんだん長くなっていき、同時に母子間の対立も表面化する
子供の方は母親に拒絶される可能性をなるべく少なくするために、おっぱいを求める時間を計るようになる
母親はいるのに、子どもの姿がどこにも見えないことがあった。母親がグルーミングをしたり、休んだりしはじめると、20メートル離れたところから母親めがけてやってきて、体に触れ、おっぱいをくわえるのだ。
ときおり不和が生じるとは言え、母親との絆を保ち続けることが、その後のあらゆる紛争解決の土台になる
同年代の子どもとの和解は、母親との次に重要だ遠思われるが、こちらも幼いときから見られる
生後4ヶ月のアカゲザルの雌、オートリーとナプキンを対象に、発達度の観察を行ったことがある
二頭がレスリング遊びをしていたとき、ナプキンの母方のおばが加わった
おばはナプキンが遊び相手を押し倒すのを「手伝って」やった
ナプキンはこの機に乗じてオートリーに飛びかかり、彼女に咬みついた
さっきのおばと一緒に座っていたナプキンのところにオートリーが近づいていって、背後からグルーミングを始めた
ナプキンは向きを変えて、オートリーと正面から抱き合った
残念ながらサルの子どもを観察しても、和解行動の学習についてはあまりわからない
年齢とともに和解行動が高度になっていくのは見ていてわかるが、子どもたちがどんなふうにその技能を身につけるかを知るには、和解に至る経験を人為的に作らなくてはならない
ある児童心理学者と議論したとき、彼は人間の和解行動に関するデータがほとんどない実情を弁護して、サルのほうがデータを集めやすいはずだ、なぜならサルは「本能」に基づいて決まりきった行動しかとらないからだと言った
この議論以来、私は和解の学習プロセスをぜひとも解明したいと思うようになった
児童心理学者の主張が言い訳として通用するかどうかは別として、人間と動物の行動はそこまで極端ではない
私は霊長類の紛争解決の研究を学習実験に応用することにした
系統的に近い関係にあるが対照的な気質の2つの種がいること
このセンターを創設したハリー・ハーロウが、飼育に関して様々な試みを重ねてきたこと 1970年代のはじめに、ハーロウのもとで研究していたメリンダ・ノヴァクは母親から引き離されて育てられたアカゲザルを対象にいわゆるモンキーセラピストを使って、そのアカゲザルのリハビリをする実験を行った 不自然な育ち方をしたアカゲザルは、常同症のあらゆる症状を呈し、チックも起こしていて、体に触られるのを恐れていた ノヴァクの実験の結果、普通の育ち方をしたアカゲザルと一緒にすると効果があることがわかった
隔離されて育ったアカゲザルは、触れ合いは恐ろしいものではなく、むしろ心地よく好ましいものだということをセラピストから学んだのである
私の目的は正常なサルを変えられるかどうかというところにあったので、「セラピスト」ではなく「教師」という呼び方をすることにした
しかも喧嘩のあとの和解の頻度が、ベニガオザルはアカゲザルの3倍で、またベニガオザルのほうが、検疫後の一大再会劇で見た尻の抱きかかえなど、相手をなだめる身振りのレパートリーが豊富
ベニガオザルの穏やかさの影響を受けて、アカゲザルの性格が丸くなるか
二歳のアカゲザルと、二歳半のベニガオザルを混ぜたグループを作った
ベニガオザルを年長にしたのは、支配的な教師役にはそのほうが適切だろうと考えたから
このグループはマカク属の一生ではかなり長い期間に相当する5ヶ月間を一緒に過ごした
マカク属は4~5歳でおとなになるので、この同居実験は人間の子どもを2年間チンパンジーのコロニーで育てるようなものだ
賭けてもいいが、そんなことをすれば子どもに深刻な、望ましいとは決して言えない影響があるはずだ
最初に両者を一緒にしたとき、意外なことにおびえたのはアカゲザルの方だった
ベニガオザルのほうが少しだけ体が大きいが、それだけでなく、彼らは穏やかな気性の下にタフな根性を持っている
アカゲザルはそのことを察知したらしく、天井の方に逃げて身を寄せ合った
ベニガオザルは落ち着き払った態度で新しい環境を点検している
数分たって、何頭かのアカゲザルが居心地悪そうなまま、耳障りな声で威嚇してみせた
これがアカゲザル同士なら、優位者は挑戦に応じ、下位者なら逃げ出しただろう
ベニガオザルは無視して、アカゲザルの方を見向きもしなかった
アカゲザルにとっては優位な相手が自分の地位を地固めする必要すら感じていないのは未体験の反応だったはずだ
この実験のあいだに、アカゲザルは同じ教訓を嫌というほど学んだ
軽い攻撃はしばしば見られたが、怪我をするほどの身体的な暴力はまったくなく、すぐに親しげな触れ合いと遊びが活動の中心となった
最初のうちは同種同士で固まっていたが、それはどんな動物にも共通する傾向だろう
デニーズ・ヨハノヴィッツがある朝見ると、アカゲザルの一段とベニガオザルの一団はそれぞれ部屋の別の隅にかたまっており、おそらくその場所で寝ていたのだろう 遊ぶときも同じ仲間同士だったが、グルーミングだけは種の垣根を越えた
ベニガオザルはスタンプテール・モンキーの別名を持つようにほとんどしっぽがなく、アカゲザルのしっぽが気になって仕方がないらしかった 彼らがアカゲザルのグルーミングをするのは、不思議な付属物をじっくり観察したり、つついたりできるからではないか
種の間の隔たりが完全になくなることはなかったが、それでもだんだん薄まっていった
実験終了時にはおたがいとても仲良くなって、ひとかたまりになって眠るまでになっていた
この実験の最大の発見は、ベニガオザルと同居するようになったアカゲザルが、和解に積極的になったこと
最初の頃は和解することはめったになかったが、だんだん教師の頻度に近づいてきて、ほぼ同レベルになった
ベニガオザルと話され、自分たちだけになったあとでも、学習で身につけた平和主義は維持された
私達はある種が持つ「社会的文化」の特性を、別のサルの集団に植えつけたのである
ベニガオザル特有の行動のいずれもアカゲザルは採用していない
明らかに友好的になったこと以外、あくまでアカゲザルらしい行動を貫き通した
ただアカゲザルは関係が確立したときや遊んでいるときに、善意の表現であるガーニングという嬉しそうな声を何度も出していた ベニガオザルの寛大で穏やかな気性と、圧倒的な優位のせいで、アカゲザルは緊張をほぐし、より懐柔的な態度を身に着けたのだろう
同じ種の典型的な独裁者が支配するグループでは、ここまでは行かなかったに違いない
関係モデルこそが、アカゲザルの変化を説明するのにふさわしい
他の種が持つダイナミクスが、アカゲザルの紛争処理方法を根本的に変えた
この実験結果から、楽観的な予測もできる
アカゲザルが和解技術を学ぶことができるのなら、人間の子どもにもできるのではないか
私達の実験を人間を教育する試みと引き合わせて考えるとき、関係の性質こそが鍵となるのではないだろうか
欧米、とくにアメリカの教育では集団の価値よりも自己実現を重視しているが、紛争解決のやり方を教えるには、その社会環境にまで注目しなければならない
たとえばジョゼフ・トビンらが各国の未就学児童を比較してみたところ、日本では子どもが喧嘩しても教師が止めたりしないことがわかった 子どもたちは攻撃にどう対処するか、友達とどうすればうまくやっていけるかを、自分の力で学ばなくてはならないというのが指導理念なのである
関係の質のうち最も重要なのは、関係の「価値」である
人間を含む霊長類は、平和のためでなく、何か貴重なものを守るために攻撃を抑制したり、和解をすることがわかってきた
まずコーズは、一頭に食べ物をやり、もう一頭には何もやらないで両者の間に喧嘩を誘発した
喧嘩のあと、サルたちは再び顔を合わせて仲良くなるのが普通
そこで和解したペアと和解しなかったペアを作るため、あるペアでは喧嘩のあとに関心をそらせて再会をわざと妨げた
その後で甘い飲み物が出てくる2つの並んだ飲み口をサルたちに与えると、予想通り和解した組のほうが、和解していない組よりもすぐ一緒に飲むようになった
コーズとサーニアは一歩踏み込んで関係の価値をさらに高めてみた
コーズたちは、カニクイザルが協力して餌を食べるように訓練した
一度に一頭しか通れない穴をいくつも作り、その先にカニクイザルが大好きなポップコーンを置く
ポップコーンを手に入れるには、同時に穴を通らなくてはならないが、そのときのサル同士の間隔は、普段の食事どきよりも狭くなるし、また脅し合うことも許されない
食事のマナーに違反すると、たちまち穴は閉じてしまう
サルたちは賢明にも自分たちで問題を解決した
和解の頻度は3倍にも跳ね上がった
こうして戦略的和解、すなわちパートナーの存在意義を認識した和解がはじめて立証された
霊長類の和解はめくらめっぽうにやっているのではなく、学習で身につけた社会的技能である 個体は社会の一員であると同時に、種にとっては社会内の貴重な結びつきを保持するための手段でもある
和解をする個体は、そんな社会構成に敏感なのである
他者がいる生活といない生活を霊長類が天秤にかけているとは考えにくく、おそらく関係への漠然とした不安に反応しているだけだろう
そうだとしたら、相互支援の度合いやグルーミングの頻度、血縁関係などによって変化する近しさの感情こそが「合理的な」決断を下す指標になる
不和や別離は強い不安を引き起こすので、つねに関係修復を心がけるようになるだろう
サルたちはともに過ごす時間の長い、親しい間柄ほど和解傾向が顕著だという研究結果もある
ストレスに襲われたり、不安定な気持ちになったとき、サルは自分の体をかく習性がある アウレリはそれを利用して、カニクイザルの自然な衝突のあと、ひっかきがどの程度起こるかを慎重に観察した
まず、誰かから攻撃を受けた後にひっかきが急増することがわかった
攻撃者との関係が不安定になって、相手に働きかけるか、それとも引っ込むかという選択の板挟みになったのである
不安は的中し、そのサルは最初の攻撃者のみならず、ほかからも攻撃を受けてしまった
次に分かったのは、ごく一瞬でも和解があれば、ひっかきが減るということ
ひっかきはストレスの表れという考えを認めるなら(数々の研究がそれを支持している)、好意的な再会によってストレスが軽減されたことになる
なぜストレスが減るかというと、一つには痛い目にあわなくてすむからだ
さらにコーズの実験にもあったように、和解によって関係が正常化され、寛容と協力的な態度が復活する
あまりにわかりきった結果からもしれない
しかし人間いがの霊長類が衝突後に見せる接触を和解と呼ぶには、ここまで証明する事が必要
もちろん科学の世界では、名前が先に来て、あとから証拠が揃うという逆のこともしょっちゅう
だが「和解」に関しては、これまでに述べたような研究の積み重ねがないと、擬人化のそしりをいつまでも免れなかっただろう
平和を作る攻撃性
人間の攻撃と言ってもその幅は広い
極端な形にばかり目をむいていれば、あらゆる攻撃形態への懸念や非難を一般化することはいとも容易い
そのためこの分野の研究には、最初から道徳的な判断、政治的提案、科学的な洞察が入り乱れてつきまとっていた
どんな攻撃も望ましくないこと、それどころか悪いことと決めつけるのは、野生の植物をすべて雑草で片付けるのに等しい
学者たちは植物を実益や美しさで見るのではなく、形態や大きさ、環境、分類などを調べる
社会関係、さらには社会全体の中で攻撃性がどのように機能しているかを考えるときも、偏見にとらわれず、いたずらに決めない態度で臨もうと思う
「機能している」という言い方も、プラスの意味が包含されているので問題がある
社会科学者は攻撃や暴力を有害と決めつけたがっているが、むしろ生物学者は、人類に普遍的で、動物にも広く見られる行動をそんな単純にくくることはできないと指摘しているのである
一歩下がって、私達を取り巻く社会を動かす一要素であることを確かめようとしている
需要が供給を上回ると、個体の利害が衝突することは避けられない
その衝突は争いで解決するものであり、そのとき脅しや暴力を使うこともあるだろう
資源に限りのある不完全な世界において、現実的な道は2つしかない
競争に徹するか
攻撃性によって部分的に形成され、支えられる社会秩序を作るか
サル、類人猿、人間、その他多くの動物は後者の方を選んだ
資源の不平等な分配から起こる露骨な争いも、別の攻撃で抑制できる
脅しや威嚇には様々な役割がある食べ物や異性への関心を示し、優先権を支えたり見張ったりし(こうすれば長期的には衝突を減らすことができる)、幼い者や弱者が他の者に傷つけられるのを防ぐ
こうした取締の機能を通じて作られる秩序は、他の動物よりも遥かに複雑
たとえばウシの群れが草をはむのも秩序だが、この場合は資源が均等に配分されるので競争の度合いは少ない つまり人間が一番大切にしているいくつかの社会制度は、攻撃性に根ざし、攻撃性に支えられているのだ
たとえば司法制度などは抑えがたい復讐心をうまく変えたものであり、容認できる限度の中でその衝動を維持している
法の執行にしても、政府による暴力に近いものであり、それとて時としては国民の大多数から制裁を受ける
イギリスの動物行動学者ロバート・ハインドは、攻撃行動が積み重なって生まれる不幸は原子爆弾の脅威に匹敵すると語った しかし上のような例を見ると、社会レベルでは建設的な攻撃性の形が存在することを否定できない
個人レベルでも同じことが成り立つ
攻撃性が社会関係に健全な結果をもたらすかどうかは、攻撃性をいつ、どんなふうに使うか、どこまでエスカレートさせるか、何が犠牲になるかで決まる
また力のバランスにも左右されるだろう
投入量と状況が問題
攻撃が常に一方的だと、もう片方にとっては建設的な攻撃とはとても言えない
屋根から落ちそうになった子どもを親が大声で叱るのは、子どもを愛し、気にかけているからであって、卑劣な攻撃とは全然違う
怒りは私達の日常の関係に深く関わっているので、純粋な状態というのではなく、必ず他の感情が入り混じっている
ジョージ・ヘリマンの漫画『クレージー・カット』には、少なくとも受けての観点からは「前社会的な」攻撃の例が描かれている 主人公のネコはネズミのイグナツに夢中で、イグナツの投げるレンガも愛情のしるしにほかならない
どんな衝突も「じっくり話し合えば」解決するという昔ながらの知恵は、必ずしも当たっていないのではないか
夫婦関係を調べた最近のデータは、そんな疑問を投げかけている
アメリカの心理学者ジョン・ゴットマンが結婚と離婚について大規模な調査を行ったところ、大切なのは喧嘩をするかどうかではなく、どんな喧嘩をするかだということがわかった ゴットマンは結婚生活を山種類に分類した
接触をできるだけ避けて、衝突を最低限に抑える回避型
お互いの言い分にじっくり耳を傾ける確認型
派手に口論や喧嘩をする発散型
発散型の結婚が一番破綻しそうだが、ゴットマンの所見は違っていた
夫婦のあいだで爆発的に起こる口論は、愛に満ちた温かな結婚生活のごく小さな一部分だということがわかった。喧嘩が持つ情熱と趣が、建設的な関係を築く原動力になっているのだ。そういう夫婦は確認型の夫婦よりもよく笑うし、愛しあっている。仲直りも難しいことではなく、その術を心得ている。喧嘩が激しい分、仲が良いときの密度も濃いのである。
私はときどき人と人の間にはロープが張られているのではないかと思う
同じように辛く当たるにしても、同僚よりも配偶者のほうが問題が少ないのは、ロープが太くて衝突にも耐えられるから
衝突に関しては和解しやすいほど、容赦ない攻撃ができるという単純な法則が成り立つ
ロープはからみあったりもする
ときには、維持する価値のないつながりなのに、相手の要求にすぐ屈したり、受け入れがたい行動をされたのに謝罪に応じたりするために、ずっと生きていることもある
攻撃が何らかの損害を与えるまでになったり、個人の利益が等しく実現できないときには、和解は適応不全になる
関係モデルとは、攻撃や和解の良し悪しを判断するものではない
利害の衝突をどう解決するか、どういう状況だとあからさまな敵意を生み出すか、それにどう対処すればいいかを知るのが、関係モデルの大きな目的
攻撃行動は、関係づくりのため数多くの道具の一つ
私達を不安に陥れる深刻な攻撃性を理解するには、ごく正常で容認できる形の攻撃性も理解する必要がある
ヒヒの証言
社会関係をとらえるとき、ときに激しい接触を通じて利害がやりとりされる場とみなしてはどうか
マカク属の研究から、近年こんな考えが浮上している
マカクの研究は、1950年代に日本の霊長類学者が着手したフィールドワークが皮切りだが、その当初からマカク社会では母系の結びつきが非常に強いことが知られていた
祖母、母親、娘、姉妹はグルーミングを熱心にするし、食べ物や水の分配に関しても寛大だし、力を合わせて他の母系一族と対抗したりもする
しかし飼育下および放し飼いのサルを調べたところ、最も喧嘩の回数が多いのは母系一族の内部でだった
つまり関係が不調だから攻撃が起こるという単純な図式ではなく、どこから見ても強い絆で結ばれた関係にこそ、攻撃的な衝突が発生するのである
ただし、この調査結果を性急に飛躍させてはならない
血縁関係にあるサルは四六時中いさかいをしているわけではなく、あくまで平和的な連合が基本である
仲の良い家族のなかで喧嘩が起こることと、また衝突がないからといって、必ずしも絆の強さの証明にはならないことがポイント
「揮発型」の夫婦のように、問題は衝突の頻度ではなく、衝突を切り抜けるやり方
攻撃行動に関係をめぐる条件交渉の役割があるとすれば、互いに依存する親しい者同士で喧嘩が起こるのは納得がいく
長期にわたる関係では、繰り返し衝突してそれぞれの期待を微調整する機会がやってくる
こうして交渉し直した条件が合意されれば、それほど激しい衝突は起こらなくなるだろう
ヤーキース霊長類研究センターでは、チンパンジー達による愛すべき妥協の様子を毎日目にすることができる
チンパンジーの子どもは母親の下唇や耳を吸ったり、乳首ではなくそのすぐ横の皮膚を吸ったりすることがある
乳首そのものを吸うことはもう許されないのだ
こんな代償行動は、母親と自分の要望の食い違いがいつまでも続いているときに起こる
これが高じると、子どもは母親の腋の下などに顔をツッコミ、本当にほしい乳首をこっそりくわえてみたりする
指やつま先を吸うこともあるが、むしろおっぱいをもらっているという錯覚のほうが重要らしい
母親もたいていは黙認するが、ときには怒り出すこともある
こうして子どもは4歳ぐらいになると、こそこそ乳首を狙うのを諦める
乳離れをめぐる戦いで、母と子はそれぞれ異なる武器を使う
圧倒的に力が強いのは母親のほうだが、子どももよく発達した喉を使って声を出し、ときに脅すようなこともする
もっとも妊娠し、授乳し、守り育ててきた今までの時間とエネルギーを無駄にしたくないのは母親の本音
子どもはふくれっ面をしたり、すねるような声を出して母親にせがみ、それでもうまくいかないと癇癪を爆発させ、ひどいときには叫びすぎて喉をつまらせ、母親の足元に吐いたりする
子どもの身に何かあれば、母親の投資が水泡に帰すため、これは極限の脅し
さらに騒ぎが大きくなると、母親に注目が集まり、おとなの雄からうるさいとぶたれるかもしれない
子どもは、子育てをする母親の気遣いにつけこむばかりか、社会的圧力まで利用している
意志がぶつかるところ、必ず交渉がある
当事者は相手の行動を予想するが、それはやがて暗黙の了解に収斂していく
合意とは合理的な決定ではなく、自分の行動に対する相手の反応を調整すること
採集合意には相手の希望やニーズが考慮されているため、そこには社会契約の原型が見られる 人間の道徳性の中心には、こうした調整をやろうとする感情がある それは共感であり、喜ばせたい、怒らせたいという欲求であり、予想への執着 児童心理学者であり、動物行動学者であもあるウィリアム・チャールズワースによると、子離れしようとする母親に対する子どもの抗議は、道徳的な憤激の最初の表現だという 赤ん坊の世界認識にはいろいろあるが、自分の幸福にとって利益か不利益かというのもそのひとつである。自分の利益になることは正しく、不利益になることは正しくないのである。怒りは……不利益をもたらす、あるいは正しくない世界を認識した最初の例に違いない。 もちろんチャールズワースは、子どもがいわゆる正義に関心があると言っているわけではない
個々でノボ得ている交渉とは自己利益で動くものであり、正当な結果は保証されていない
母親と赤ん坊は利害が共通する部分が多いが、子どもが大きくなって自立し始め、母親が次の妊娠に備えるようになると、乳離れの衝突自体がお互いの利益になる
もちろん例外はある
ジェーン・グドールによると、優秀な母親で通っていたフロも、末息子の子育てのときにはもう年を取りすぎたのか、赤ん坊の激しい癇癪に抵抗する気力をなくしていた 私達人間も、圧倒的な腕力を持つものが家庭内でその力をふるえば、家族にとって公正な結果にならないことを知っている
二者の利害が衝突したとき、どうやって収めるかは、両者の関係の内容、翻って言えば種によって変わってくる
母親と赤ん坊の関係に限っては、すべての哺乳動物で基本的な特徴が共通しているが、その他の関係となると違いが顕著
種が違えば、自分がどんなふうに扱われるか、また扱われるべきかという期待も全く違ってくるだろう
扱われ方への期待がどれほど重要かは、オマキザルの研究をはじめたときに明らかになった このプロジェクトで、私はそれまでの無干渉主義をやめて、社会行動を実験的に調べることにした
普通はサルを一頭ずつ檻に入れることが多いが、私はコロニー全体を屋外の大きな囲いに入れ、実験エリアも同じ囲い内に設けたいと思った
多大なストレスを与えることなく、個体を群れから引き離せるかどうかが、実験全体の鍵を握っていた
まず、移動用檻に入るように訓練しなくてはならない
私達は彼らに慣れてもらおうと、自由に交流を始めた
何頭かが肩に飛び乗ったり、勝手にポケットを探るようになったが、年長のサルは怖がって、私の手からピーナッツを受け取ることもしない
私は単純にも、実験の狙いを最初に理解するのは「友達になった」サルたちで、内気な個体は学習に時間がかかるだろうと思ったが、それはとんでもない間違いだった
私が手を叩いて追いかけると、移動用檻に入りさえすれば追いかけられずにすむことを察知したのは、むしろ怖がっていたサルのほうだった
私は彼らを別の囲いに放し、おいしい食べ物をたくさんやった
数回やっただけで、サルたちは喜んで手順に従うようになった
一番手を焼いたのはよく慣れたサルのほう
せっかく信頼していたのにその期待を踏みにじった私を、大声でなじりはじめた
それでもようやく合意が成立したのだが、当然のことながらオマキザルは自分の立場が有利になったと思った
オマキザルの研究は今も続けている
今では彼らは世界で一番扱いやすい動物となった
オマキザルと私の間に生じた数々の摩擦は、そのまま彼らの気質を物語っている
オマキザルの社会は、アカゲザルの独裁制よりは、むしろチンパンジーの寛大な社会配列に近い
オマキザルでの経験をきっかけに、私はアメリカのウマの調教師ヴィッキ・ハーンの主張を正しいと思うようになった 調教師とウマは、道徳的な条件を盛り込んだ契約関係を結ぶのだとハーンは言う
一方的に威圧するのではなく、合意を探りながらおたがいへの期待を具体的に描いていくのである
ウマのように大きく威圧的な体の動物であれば、その理由は簡単に推測できる
威圧と力による脅しは、人間を含む霊長類の関係で大きな部分を占めている
だがそういう性質はきちんと抑制しないと、個体同士を結ぶロープはたちまち擦り切れてしまう
母チンパンジーは子どもをはねつけるだろうし、優位者は食べ物を独り占めするだろう。だが、良好な関係を維持したいと思っているなら、そんなことは起こらない
だからこそ威圧ではなく、むしろ「説得」と呼ぶに近いプロセスが日常的に見られる
霊長類における交渉形態で一番知られているのは、おとなの雄のヒヒが同じ群れの他の雄にする挨拶だろう
そして相手の目をまっすぐ見つめるのだが、そのとき唇を鳴らすなどの友好的な表現を伴うので、挨拶をはじめたいという意図がはっきりわかる
ヒヒの雄は雌をめぐって激烈ならライバル関係にあるし、鋭い犬歯を使えば一瞬にして深い傷を負わせることができるため、それゆえ意志の疎通が不可欠なのだ
こうして出会った雄たちは、次に一定の順序に則って行動するのだが、その内容は雄同士の関係によって変わってくる
たいていは、挨拶を受けたほうがやはり友好的な表現で出迎える
そしてどちらかが相手に背中を夢絵kると、もう一方がその腰に触れたり、つかんだりする
親密になると、相手の陰嚢を愛撫したり、ペニスを引っ張ったりする
だが、雄同士の接触はほんの数秒で終わり、彼らはまた別々に行動する
ヒヒの雄同士は、連合を組んだりグルーミングをしたりするほど安心できる関係ではないようだ
だから雄対雄のやりとりは、喧嘩と挨拶が中心になる
このときのヒヒの出会いは非常に緊迫したもので、喧嘩に発展することもあった
出会いの行動がトップにいる者を試したり確認する手段になるからで、今後誰が馬乗りをし、誰が馬乗りをされるかを判断するために、うまく立ち回る必要がある
いつも相手側に尻を向けていた(プレゼンティング)雄は、相手の拒否にあってこれまでの関係が機能しなくなったことを悟る 挨拶の場では、まず間違いなく緊張がコントロールされている
だからこうして情報をやりとりすれば、身体的な衝突なしに事情が把握できる
スマッツとワタナベは、一番若くて喧嘩っぱやいおとなの雄たちが、支配者の地位に恋々としていることを発見した
彼らは挨拶もとげとげしい
いっぽう年長の雄同士は、付き合いも長いのでさほど緊迫感もなく、競い合うよりもたがいに協力し合うことを学んでいる
彼らのネットワークは、血気盛んな若者たちが魅力的な雌を独占するのを巧みに阻止している
雄同士の関係が、支配をめぐる交渉からパートナーシップの地固めへと変化するにつれて、挨拶ものんびりしたものになっていく
なかには、優位劣位は抜きにした付き合いができる組み合わせもあった
そんな彼らの挨拶は、非対称のものから対称的なものに変貌を遂げた
たとえばアレグザンダーとボズは、忠実な同盟仲間だった
朝最初に出会ったとき、2頭は一連の親密な挨拶をかわすのだが、まるで数えながらやっているのかと思うくらい、両者のバランスがきちんととれていた
同じことを繰り返す
こうした動作の対称性から、どちらかが相手を利用しているのではなく、今日も相互に助け合い、利益を分け合おうという申し合わせをしているのは明らかだった
役割が公式化されているのと、体の中で一番記事つきやすく大切な部分が使われるという点で、スマッツとワタナベは人間との共通点を聖書に見出した
聖書に書かれている誓いは、相手の陰部の下に手をおいて行う
挨拶でときおり見られる陰嚢触りは、挨拶という公式の場で「口にする」内容に嘘偽りがないことを強調している。ヒヒは人間の言葉を持たないので宣誓はできない。そのかわりヒヒの雄は、将来の生殖能力と相手への信頼を重ね合わせるしぐさをするのだ。この動作は、プレゼンティングをする側にとっては多大なリスクを伴う。だからこそ挨拶時の真実味がいっそう増すのだろう。
ストレス社会でのモラル
現代社会では、赤の他人同士、あるいは共通の利害がまったくといってない者が衝突したときに、最も破壊的な攻撃が起こる
この種の攻撃では、関与している者に結びつきがないため、関係モデルは当てはまらない
攻撃する方もされる方も、同じコミュニティに属しているという感覚すら持っていないかもしれない
そのため多くは大都市で発生する
サルや類人猿の社会生活には、人間世界の大都市に匹敵するような、見知らぬ者同士が大規模に集まっている状態は存在しない
ところで、アメリカの学界や政府の最高レベルの関係者が、この問題とのかかわり合いを避けてきたというわけではない
この問題が急浮上したのは、1992年2月11日に開かれた国立精神衛生研究所の委員会会合の席上 大きな連邦機関(アルコール・薬物乱用・精神衛生局)の責任者だったフレデリック・グドウィンが、都市部の犯罪を理解する手がかりがサルの行動に見つかるのではないかと提唱した。 たとえば、とくに野生での雄のサルを見てみましょう。おとなになるまで生きのびられるのは、全体の半分に過ぎません。残り半分は暴力によって命を落とします。雄にとっては、相手を打ち負かすのはごく自然なことなのです……さて我が国において、とりわけ大都市部で社会構造が崩壊しつつあり、これまで築きあげてきた文明進化の業績が失われようとしているならば、大都市の一部をジャングルと呼ぶのもあながち不用意とは言えないのではないでしょうか。
この発言は大変な非難を受け、グドウィンは辞職に追い込まれた
しかし事態は深刻化してしまい、人間の行動に遺伝がどう関わっているかについて、根深い意見の対立があることをうかがわせた まずひとつの立場は、人間の攻撃性が純粋な文化ではないと考えるもの
遺伝子や脳、ホルモンが関わっているに違いなく、さもなければ、洋の東西を問わず暴力犯罪の大多数を起こすのが若者だという事実を説明でいないだろう そしてもう一方の立場は、生物医学的なアプローチが政治に影響を与え、遺伝や神経医学の面から暴力的な素因を見つけ出し、そうした素因を持つ子どもを選別する政策が実施されるのではと懸念する
こちらの考え方の筆頭論客である精神科医のピーター・ブレギンは、もし動物と比較するならば、サルではなくチンパンジーを対象にするべきだという妙な主張をする チンパンジーは相対的に非暴力的で、家族志向であり、紛争が起こっても遊びや抱擁、キス、相互のグルーミングといった愛すべき行動を通じて、集団内部で解決を図る。我々もちゃんとチンパンをまねることにしよう。
私も同じことを言いそうになるし、チンパンジーから学べる点があるという意見には賛成だ
とはいえ、野性のチンパンジー同士の生命を賭した「戦争」や、たまに見られる子殺しやカニバリズムを軽視するわけにはいかない ありとあらゆる抑制をかなぐりすてるときがあるからこそ、普段は抑制が効いているような印象が強いのだ
対立する科学者達が霊長類の頭越しに公然と相手を攻撃しあうようになって、霊長類研究の黄金時代がはじまったかのように思われた
そんなときエドワード・ケネディ上院議員とジョン・ディンゲル下院議員が「霊長類研究は、今日のわが国を悩ませる犯罪と暴力を議論するためのくだらない叩き台だ」という意見を発表した
こんな主張の背後には、「行動の排水口」のイメージが見え隠れする グドウィンは大都市の「ジャングル」で文明や社会構造が損なわれつつあると指摘したが、彼の意見は、混み合った状況では無秩序や堕落が起こりやすいという世間一般の見方を象徴している
この本の冒頭には、人口増大の速度は悪徳と困窮によって自然に遅くなっていくというトマス・マルサスの所見が引用されている カルフーンはそれを受けて、人口の増えすぎが病気や食糧不足といった困窮状態を招くことはわかるが、悪徳の影響についてはまだ何も分かっていないと書いた
その発想に触発されたのが、ネズミの数を狭い入れ物でひたすら増やすという実験
増えすぎたネズミは殺し合ったり、性行動を無理強いしたり、はては共食いをはじめたりして、悪夢のような修羅場を見せた
そういう事件の多くは、中央の餌場付近で起こった
給餌器はほかにもあったのに、ネズミは吸い寄せられるように中央付近での混乱に近づいていく
集団がひとつのものに吸い寄せられ、混乱や異常が起こることから、カルフーンは「行動の排水口」という考えをとった たちまち通俗化が始まった
アメリカのサイエンスライター、ロバート・アードレーは人間社会は無政府状態か独裁制に向かいつつあると警告し、群れには自発的な性質があると述べた しかしアードレーは、ネズミから人間に話を移すときにとても大事な点を見落とした
人間の世界では、人口密度と攻撃性の相関関係はネズミほど単純ではない 先進国のなかでも人口密度が高いオランダから、土地の余裕はたくさんあるにもかかわらず殺人発生件数の多いアメリカに移り住んだ私自身、人口密度と攻撃性との相関関係に疑問をいだいている
アメリカは一平方キロメートルあたりの人口で比べるとオランダの14分の1だが、人口1人当たりの殺人件数は10倍
大都市は人がひしめきあっているが、同じ大都市でも人高10万人当たりの年間殺人件数はベルリンが1.4、ローマが1.2、東京が0.5なのに対し、ワシントンが34.6、ニューヨークが14.4とずば抜けて高いのはなぜか?
都心部の暴力がわりあい少なく、私達が生き抜いていけるのは驚きだ
ところが学生たちは地下鉄で連日起こる一握りの攻撃的な光景を引き合いにだして、人間の持つサル的な野蛮な性質が、都市環境への適応を難しくしていると解釈したがる。だが動物行動学者の立場から地下鉄の乗客が驚きなのは、彼らの敵意ではなく、むしろ高度な協調と習慣性である。動物なら暴走しかねない危険な環境で、毎日何千人がつつがなく移動しているのだ。
しかし、一般の人もトンプソンの学生たちと同じで、都市部の問題をことさら強調する発想を好んだ
悲観的なこの立場に、最初のうちは霊長類学者も足並みを揃えて、飼育状態はボスの横暴さに拍車をかけて群れを恐怖に陥れるとか、優劣の序列はストレスの産物に過ぎないとか、空間が狭くなるとサルの攻撃性は急上昇するなどと言っていた
自然こそ完全な平和状態だという当時一般的だった考えも加わって、科学者達は霊著類とネズミに意外な共通点を見出したのである
しかし、自然界でもラングールからゴリラに至る多くの動物で、散発的ではあるが致命的な暴力をふるう例があること、また何十年にもわたって安定した階層序列を維持する動物もいることが、野外研究者から報告されるようになってきた 順位の低いサルが辛酸を嘗めることもわかってきた
スリランカの野生のトクモンキーは、生まれた雄の95%、雌の85%がおとなになる前に栄養不良で死んでしまう 人口密度と攻撃性の関係に疑問が出てくると、自然状態でのルソー的な霊長類のイメージも崩れ始めた
人口密度は他の要素とははっきり区別して考えるべきだと主張され始めた
そして新しい飼育場で数年過ごさせてから、狭い囲いに移すとまた攻撃性が高まった
アレグザンダーとロスは「暮らし慣れた生活環境から引き離されたことが興奮を誘発したのであって、新しい環境の特徴とは関係がない」と結論づけている
こうした研究結果が出てきたことで、生息環境や群れの変化の影響を排除して研究する新たな試みがなされるようになった
だが、混みいった環境だと攻撃性が高まるという報告もあれば、攻撃性は変わらない、かえって低くなるという報告もあって結果ははっきりしない
生息密度が高い状況で社会摩擦が発生するという予測は理にかなっているかもしれない
しかし霊長類はそれに対処する術を持っている
寒い冬の間、チンパンジーが過ごす屋内のホールは、屋外の島の面積のわずか5%しかない
広さ以外に新たな要素を一切加えなかったところ、チンパンジーたちはどちらの環境でも友好的な態度は全く変わらなかった
冬の間、チンパンジーはいらいらしやすく、緊迫することもときおりあったが、ことさら攻撃的ではなかった
ふだんからそりが合わず、おたがいに避けていたような雌同士は、狭いホールだと嫌でも顔を突き合わせることになる
一方の赤ん坊が、何も知らずにもう一方の雌の膝によじのぼったことがあった
衝突してもおかしくなかったが、このときは後者のほうが地位が高いにも関わらず自ら赤ん坊の来られないところに移動して問題は解決した
赤ん坊の母親の方もその雌に近づいてグルーミングする
屋外では考えられない状況だった
隙あらば既存秩序への挑戦を狙っている雄たちも、冬の間は矛先を収めるらしく、第一位雄におじぎやパントグラントでしきりと挨拶して、経緯を表していた
追い詰められてもいないのに暴力を振るう、また他の者がただ見ている前で一対一の戦いを繰り広げるのは、島に放されてからだった
アーネム動物園の歴史を紐解くと、大きな権力闘争はすべて屋外で起こっている
屋内ホールで発生する攻撃的な出来事の頻度は、島に比べて二倍に満たなかった
攻撃の激しさもほとんど差はなく、負傷も特に見当たらなかった
服従的な挨拶やグルーミングなどそれ以外の行動は、攻撃よりも増えた
これらの行動には相手をなだめ穏やかにさせる効果があるので、そのおかげで緊張関係が和らいだのかもしれない
しかし重要なのは、行動に顕著な変化があったのは最初の数週間だけということ
そのあとは夏と同じレベルに戻った
従来の実験では、動物も人間も短期間狭いところに閉じ込めるというものだったから、環境が及ぼすごく短期的な影響しかわからなかったのである
とにかくチンパンジーの群れを狭い場所に入れても、極端な暴力や性行動らしきものはまったく起こらなかった
私は別の仮説を立ててみた
混雑の影響は、群れが「慣れていない」最初の時期が最も大きいが、適応するにつれて影響が小さくなる
混雑した状況が個体や社会システムをストレスにさらすという点ではカルフーンの考えを踏襲しているので、彼の説と真っ向から対立するわけではない
カルフーン説との最大の違いは、混雑した環境のもたらす緊張を、霊長類がそのまま受け入れていないという点
彼らは対抗策を講じて社会が崩壊するのを防いでいる
どちらの研究も囲いの中での飼育と放し飼いを比較しているが、攻撃のレベルは全く変わらないという結果が出ている
それによると、攻撃性と同時に親和的行動も増えたので、結果的に社会システムは安定したという
こうした調整メカニズムは、霊長類に限ったことではないのだろう
次の段階としては、この仮説の網をできるだけ広い範囲に投げる必要があった
一人の調査者が、様々な環境での生息状況を統一の取れた方法で評価してみなければならない
そこで私は、アカゲザルで調査を行うことにした
ウィスコンシン霊長類センターでは狭い室内の畜舎と屋外の広い囲いで飼われている2つのグループを、ヤーキース研究センターでは広大な敷地にいるグループを、また4つ目としてサウスカロライナ沿岸の大きな島に放し飼いにされているグループを対象にした
これら4つの生息環境の最大の違いは一平方メートルあたりのサルの数
狭い畜舎とサウスカロイライナの島とでは、面積は646倍も開きがある
島はオークとヤシに覆われており、三次元の空間も計算に入れると実に6000倍の広さ
彼はそれぞれの観察地で「個体追跡」を何千件にもわたって行い、コンピュータに入力していった結果、次のようなことが判明した
小規模な攻撃が増える
おとな一頭の一時間あたりの攻撃行動の平均回数は、環境によって1.6から2.6回のさがあった
一番混雑した環境で回数が最高だったわけではないが、生息密度が高いほうが攻撃回数が多いという全般的な傾向が見られた
しかし空間の差に比して、攻撃性が受けた影響は意外なほど小さかった
攻撃の激しさが増える
多くの環境で、最も攻撃的な接触は脅しと追いかけだけで構成されていた
しかし生息密度の低いところよりも混雑した環境のほうが、咬みつきなどの激しい攻撃が増え、その結果負傷するサルも増えた
性差
上記の二傾向が見られたのは雌だけで、雄の攻撃性や負傷の件数は環境の影響が見られなかった
成功を目指す雄はつねに競争に関わらなくてはならず、それは身構えた態度を見せる割合が上限に近いからだろう
通常雌は雄より攻撃性が弱く、生息密度が低い環境では直接的な競争を避けることもある
雌はその分攻撃性が強まる余地があるわけで、環境が混み合うとそれだけ攻撃的になる
おとな一頭、一時間当たりのグルーミングの回数は状況によって2.6回から4.2回と幅がある
雄・雌どちらとも、生息密度が高くなるに応じてグルーミングも増えている
服従や宥和のジェスチャーも同様に増えた
こうしたデータから言えること
まず、アカゲザルの群れを長期間ひとつの環境に置いておくと、攻撃の割合は生息密度に関係なくその種独自のレベルに落ち着くことがわかる
母系階層構造と血縁ネットワークを柱とする社会システムは、環境が変わっても本質は変わらず、したがって社会摩擦の件数も大きく増減するわけではない
さらに、混雑度が増すにつれてグルーミングや宥和のジェスチャーが頻繁に見られるようになり、これが緊張を和らげる働きをしていると考えられる
生息密度と関連が強く、しかも不利益をもたらす見落とせない要素として、負傷を伴うような喧嘩の頻度の増大
しかしこれも混雑度それ自体の産物というより、逃げ場所がないことのほうが大きいようだ
だとすれば、混み合った環境がアカゲザルを攻撃的にするというよりも、ひとたび攻撃性が噴出したときには、空間が限られている環境のほうが深刻な結果を招きやすいと言う方が適切ではないか
霊長類は環境が原因で起こるストレスに積極的に対処している
この説をさらに裏付けるように、混雑した環境では和解行動も増える
しかしここには重大な落とし穴がある
群れの中で起こる喧嘩の回数や、同盟関係の程度を画一的に見ていいのだろうか
混み合った場所で暮らしていれば、かつての仇敵と偶然出くわす確率も高くなるだろう
その点を考慮に入れて修正を加えたところ、混み合った状況で懐柔傾向が強まることを立証できない研究が出てきた
以下の3つの研究では、環境が和平傾向に影響を及ぼすかどうか突き止められなかった
この結果を、社会の檻、そして個体同士の結びつき絡みてみよう
群れに所属したいという感覚、特定の関係を重んじる価値観が状況に関係なく不変であるなら、野生状態や広々とした島にいるサルも、狭い囲いに暮らすサルも、喧嘩を解決しようとする頻度に変わりはないはず
もう一つの和平手段、つまり攻撃者と被攻撃者が会わないようにするというやり方は、どんな環境でも現実的ではない
サウスカロライナの島を観察したジャッジは、順位の低いアカゲザルが長いこと群れを留守にできないのは、見知らぬ相手と食べ物を奪い合うより、順番は最後でも仲間内で食べるほうが幸福だからではないかと推測した
同様にアウレリも、森では大型のネコや猛禽といった捕食者に襲われる危険があるので、仲間の誰かと深刻な対立を抱えていても、群れの保護下から出られないのだと考えた
こうした調査から次のような図式が浮かび上がっている
団結力の強い社会システムは、濠やフェンスで区切られていようと、危険な捕食者や対立するグループがいようと、発生する衝突量はxであり、衝突の修復にはyという和解量が必要である、ということ
全体の面積が狭くなればなるほど、ひとたび対立が発生したとき物理的な損害を被りやすいということもあって、緊張緩和のために投入する力も増えてくる
もっともストレスに対処することと、ストレスを取り除くことは同じではない
混雑した生息環境では、行動面にしろ生理面にしろ継続的な対応策が要求される
それは霊長類が潜在的に持っている優れた適応力のひとつ
霊長類の喧嘩やグルーミングの頻度を数える従来の手法では、氷山の一角しか見えないような気がしてならない
計測結果にほとんど差がないのは、動物たちが、何世代にもわたって培ってきた生活様式を正確にとらえていないからではないか
動物たちが、他者の意図や期待に応じるために交渉したり調整をするという発想は、環境に適した社会形態がどのように整えられていったかを考えるうえで欠かせないもの
それはちょうど文化の多様性と共通するものがある
日本人やジャワ人、オランダ人など、狭い国土にひしめき合って生きてきた人々は、それぞれ独自のやり方で寛容さ、協調性、意見の一致を大切にする
これに対して、見渡す限りの広い土地にまばらにしか人が住んでいない国では、個人主義が発達し、プライバシーや自由を重視するだろう 個人とコミュニティの価値のバランスが道徳的な決定に影響を及ぼすという意味で、道徳性は環境に対する人々の反応の骨格であり、また人口過密が引き起こす社会衰退を防ぐ重要なはかりの重し
善悪の定義を調整することは、生まれついての適応名人ホモ・サピエンスが意のままに扱える強力な道具、能力の一つ 道徳性はつねに不変ではなく、戦時と平時、豊かなときと貧しいとき、人口密度が高いときと低いときですべて異なる
特定の状況が長く続けば、文化が持つ道徳観全体も影響を免れないだろう
社会ストレスに対処する能力が極限まで発達しているのは、私達人類かもしれないが、その背後には進化の長い歴史が連なっている
他の霊長類の野外研究をもっと推し進めることで、その起源が解明できるだろう
霊長類は野生の状態で行動を発達させてきたわけで、何百万年ものあいだ彼らが口にしてきた食べ物や、犠牲になるまいと逃げ続けてきた捕食者、適応を迫られた気候、その他の環境要因を人工的に再現することはできない
次世代への継承と、種全体への普及を促すような行動の利点を「適応的意義」と呼ぶ 適応的意義は、すべてが本来の性質を保っている原始の生態系で研究するのが理想だが、いまでは世界規模の汚染や生息地の破壊のせいで、そんな生態系を見つけるのは困難になっている
それでも今ある霊長類の生息地はいくらかでも原始の状態に近く、そのため適応の進化の歴史に多少なりとも光を当てられるのではないかと言われている
ブラジル東部、コーヒーのプランテーションが大部分を占める山の一角に800ヘクタールの森林が残っているが、ここもそんな調査地の一つ
ムリキはいわば新世界に生息するマウンテンゴリラで、南米大陸では最大の霊長類である
絶滅の危機に瀕しており、野生での個体数は500頭に満たないだろう
穏やかな気性という点に関しては、これまで誤った主張をいくつも聞かされてきたが、ムリキは違う
のべ1200時間に及ぶ観察のうち、ストライヤーが彼らの攻撃的な追いかけを目撃したのはたった9回
性的魅力を発散させる雌がそばにいれば、雄同士が競い合うのではないかと、霊長類学者なら当然だが、ストライヤーも最初はそう考えていた
ところがムリキはつかみ合いなどせず、おとなしく自分の順番を待つ
雄が(性器の)のぞきこみをやろうとすると、雌はそれを避けて思わせぶりなグリマスを浮かべ、別の雄に尻を向けるといった情景がしばしば見られた ブラジルの別の調査地でも、同じような性的行動のパターンと、雄の寛大さが確認されている
ムリキの雄は一緒に過ごす時間が長く、2頭異常が抱き合ってチャックルと呼ばれる声を出したりする 攻撃行動が実質的にゼロに近い理由として、ストライヤーは食べ物探しが独立して行われること、雄と雌が平等な関係を築いていること、そして雄の睾丸が巨大なことの三点を挙げている
最後の理由は性的競争が交尾相手をめぐる直接的な対決ではなく、生殖レースに勝つためにより多くの精子を生産する方向に転じたわけだ
交尾が終わったあとの雌のヴァギナは射出されたばかりの精液でふさがっているが、それは次の雄によって遠慮なく取り除かれ、地面に落とされたり、あるいは雄が食べたりする
どうしてムリキがこういう進化を遂げたのかは諸説あるが、ともかくこういう調査地があるからこそ、攻撃なしに紛争解決できる状況を目の当たりにすることができる
もちろん、人間社会における攻撃性と暴力という問題は、人間の睾丸が大きくなればそれで解決するものではない
私達人間はムリキやネズミとは違って、戦闘的な気質もあれば、抑制して均衡を図る高い能力も持っている
グドウィンの発言に代表されるような議論(遺伝か環境か)は、両者を自然科学と社会科学のように完全に別物だと考えている点で、前提からして間違っている ある動物の典型的な行動と適応性まで生態に含めるとすれば、人間の遺伝はあらゆる面で環境と結びついている
過去の環境によって遺伝が形成されてきたというだけでなく、今の環境への反応の仕方を決定するのも遺伝
そして反応の仕方が他の類人猿と共通している以上、様々な状況での類人猿の集団生活を研究することによって、人間の驚くべき可塑性がどこから来たのか、行動の排水口に陥らないためにはどうすればいいかを知る手がかりが得られるだろう
さざ波のようにモラルが広がる
アトランタは太っていて動きも鈍いが、それを記憶力が補っていた
ある時ソッコがアトランタに泥を投げて、それから一時間以上たって、ソッコが遊びに夢中になっていたときにアトランタがそっと近づいてソッコの腕をつかんで咬みついた
ソッコはアトランタを避けるようにして、彼女の息子のレットに近づき、くすぐりあいやレスリングをはじめた
2頭はしゃがれた笑い声を立てながら、くんずほぐれつで地面を転がっている
ソッコはいかにも遊びに没頭しているようだが、ときおりちらちらとアトランタに視線を走らせた
アトランタの血縁者に近づき、善意を示しているのだ
何分かしてソッコはそこを離れ、アトランタのすぐ近くだが彼女の手の届かないところに腰を落ち着けて何かを見ていた
アトランタはうなずき、姿勢をわずかに変えた
グルーミングをしてもらいたいときに見せる仕草
ソッコはすかさずやってきてグルーミングをはじめ、アトランタもお返しにソッコの毛づくろいをした
マカク属の例にもれず母系社会を形成していて、雌の血縁者はお互いに協力し合う
ジャッジが観察したところ、ブタオザルの雌は喧嘩をした者同士はもちろんこと、被害を受けた者の親族まで、攻撃者と接触を試みた
娘を攻撃した相手に母親が接近するというのは、「子どもに代わる」和解行動と思われる
この「三者間和解」は、一族全体の身の安全が保証されるという点で、全員の利益となる 確かに個体同士の緊張はそれぞれの親族にまで波及する場合がある
最初の喧嘩を見たことで、相手一族への敵意が生じたのだろう
ベルベットモンキーにも見られる三者間和解は、それと表裏一体で、我が親族と対立した母系一族に報復する代わりに、相手との関係修復を図る
代理和解をするには、自分の親族だけでなく、他の誰がどの一族に属しているか把握していなければならない
霊長類が自分の周囲の血縁関係を認識しているという証拠は、徐々に集まっている
彼女はマカク属のサルに、同じ群れの雌や子どもの写真を見せ、血縁関係の有無で分類させてみた
サルたちはこの作業を巧みにこなし、ソッコのように母子関係を認識していることを示した
自分が直接関わっていない血縁関係も把握しているからこそ、霊長類の喧嘩は当事者同士にとどまらず、和平の試みがさざ波のように広がっていくのだろう
ベニガオザルなどは、和解のとき特殊な声を出して群れ全体に注意をうながし、何が起こっているかを知らせようとする しかし人間以外の霊長類で一番和解に気を配り、その重要性を把握しているのはチンパンジーだろう
彼らは和平の申し出に対して否定的な反応を示すことさえある
飼育されているチンパンジーコロニーでは、雌が団結して乱暴な雄から身を守ることは珍しくない
雌の集団に寄ってたかって殴られたのではかなわないので、雄は急いで彼女たちから離れ、うまく逃げおおせることができれば、遠くから雌をじっと見つめる
雌は単独ではかなわないので、連合を組むことが不可欠
こんな冷戦状態のとき、雌の誰かが雄に近づいて、背中を見せたりキスをしたりすると、雌たちの鬱積した怒りが方向転換する
残りの雌たちはまだ気が収まっていないからか、その雌のふるまいを反逆とみなす
もっとも、和解は好意的に受け止められ、褒め称えられることのほうが多い
おとなどうしが派手な喧嘩をしたあと、子どものチンパンジーがやってきて両者を見比べる
おとなたちが仲直りをして抱き合うと、子どもはホーと大きな声をたてて、彼らの背中に飛び乗ったりする
前にも述べた通り、おとなの雌も対立する雄同士を仲直りさせる役回りを演じることがある
かなり高度な社会意識がないとできないことだ
劇的な和解が成立すると、コロニー中が沸き返り、みんな抱き合って大騒ぎするのも、チンパンジーが調和の取れた共存を重んじているからだろう
三者間和解にしろ、第三者による仲裁によって緊張が解消したときの喜びにしろ、サルや類人猿がグループやコミュニティの関係に気を配っていることの表れ
もちろん彼らは、自分と誰かとの関係だけでんかう、自分と周囲の関係も気にしている
私はそれを「コミュニティへの関心」と呼んでいる
ただしサルや類人猿は、抽象的なまとまりとしてのコミュニティに心を砕いているわけではなく、むしろ自分が一番得をするコミュニティを求めていると言ったほうがいいだろう
個々の利害が重なり合っているかぎり、コミュニティへの関心は集団の問題
武器を取り上げたり仲介する雌は自分のためにやったのかもしれないが、こうした行動はグループ全体の利益になっている
雄がいつもとげとげしく、凶暴なことばかりしていると、雌はもちろん、子どもにとっても大きな脅威となる
野生状態では、群れ全体がまとまっていない印象を与えて、近隣の群れの雄から襲撃を受けたり、なばわりを奪われたりするかもしれない
群れにいる個体の利害が完全に一致していれば、社会調和の重要性についても異論がないので話は早いが、利害は衝突するもの
順位の階段を駆け上ろうとする若い雄は、群れ全体に波乱を呼び、何週間、ときには何ヶ月にもわたって混乱が続く
母家長の死亡で順位の高い母系一族が弱体化してくると、別の母系一族の母家長が何かというとつっかかってくるだろう
一つの環境では、自分の地位や食べ物にまつわるプライベートな目標と、群れが繁栄するための共通の目標とは激しく対立する
社会性の高い霊長類はお互いに依存しているが、下手をすると仲間と戦闘状態になるかもしれない
生存と生殖に最適な社会環境の中で、それぞれの既得権益を追求することが、コミュニティへの関心のそもそもの出発点
競争がどんな不利益をもたらすか
特定の関係が損なわれる
社会性の高い霊長類は、ときに喧嘩に勝つと友人を失うというジレンマを抱えている
有益な関係は大切に維持する必要があるが、そのためには攻撃性の爆発を抑えなければならない
この抑制が強く働いて、食べ物をめぐっても競争が起こらず、平和的に分配する種もいる
ニッキーとイエルーンのように、きわめて良好な関係も決裂することがある
身体的な危害
びっこをひいたり、出血していたり、感染症にかかっている者は、捕食者や近隣の群れに襲われたときに戦闘要員にならない
過度に攻撃的な者が群れにいて仲間を傷つけてばかりいると、社会環境の質が悪化して、群れ全体の存亡も危うくなる
群れの団結が危うくなる
群れの存在意義を考えると、団結の維持はすべての構成員にとって価値あること
ただし群れに新たな個体が入ってきて、有利な地位を確保するためにわざと団結を乱すこともあれば、もともとの構成員が長期にわたる支配抗争をはじめることもある
こうした行動は勝った場合の見返りがとても大きいので、団結が崩壊するのもいとわない
だが長期的には、群れの生活を頻繁に、また激しくかき乱す者は、群れの他の構成員の利益だけでなく、自分自身や親族の利益も損ねることになる
彼らのコミュニティへの関心は次のように定義できる
「コミュニティや群れで生活する利益を高めるべく、そのための特質作りを推進しようと個体やその血縁者が行う関与」
この定義では、意識的な動機や意図に言及しておらず、特定の行動に関連する利益を仮定しているだけ
つまり、社会的な動物は、群れの調和を乱しかねない行動を抑制し、平和的共存と個人利益の追求の最適なバランスをとろうと努めるが、彼らは自然淘汰によってそうなったと言っているだけ 行動が群れ全体に及ぼす影響を動物自身が理解しているかどうかはさほど重要ではない
ただ動機や意図を探る作業は魅力がある
人間の道徳性はコミュニティへの関心が最も顕著な形をとったものと見ることができるから、なおさら
社会式のレベルが高い動物ほど、周囲に起こる出来事がどんなふうにコミュニティを通過して、自分の足元に落ちるかを理解している
そういう認識があるからこそ、コミュニティの特質作りに積極的に関わることができる
最初は親族や攻撃者といったごく身近な関係への興味にはじまり、次第に自分から遠くても生活に影響のある関係(対立する優位者間の緊張関係など)に広がっていく
やがては集団の調和を高めるような行動(いわゆる監督役を務める中心人物が仲裁するといった)を、みんなで支援するようになる
個々がまとまりのない行動をする社会に飽きたらなくなった人間は、コミュニティへの自己中心的な関心を集団としての価値観に変質させた
誰にとっても公平な生活様式を求めるのは、仲間と良好な関係を築いて協力し合う必要性から生じた、いわば進化の所産かもしれない
だとすれば、仲間と仲良くやっていくという目的に貢献し、干渉する様々な行動からも、より大きな洞察が得られる
社会組織を根本から弱体化させるような行動を「悪」とみなし、暮らしやすいコミュニティ作りに役立つ行動を「善」とみなすようになった
そして望ましい形で社会が機能するように、次第にお互いの一挙一動に目を光らせるようになった
コミュニティへの意識的な関心は、人間の道徳性の心臓部である